一つの時代が終わった

「夢の超特急」ラストラン 0系、営業運転から引退へ
http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008113001000005.html
夜の「0系」名残惜しむ、新大阪〜博多の各駅にぎわう
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081130-OYO1T00168.htm?from=top
0系新幹線 最後の列車出発
http://www3.nhk.or.jp/news/t10015693691000.html

 詳細なスペックや開発苦労歴史のまとめサイトがあちこちにできる(できている)だろうから,極々表明的な子供時代を思い出してみる。
 東京オリンピックを目指して開業した新幹線は,当初東京大阪間を4時間で結んで慣らし運転し,そのご営業最高速度210km/hで設計通りの営業運転に入った。当時は,30分に1本間隔のダイヤで「こだま」と「ひかり」のシンプルな運行形態だった(遠い目。
 親戚の家のそばに高架橋があり,30分間隔でドーーンという通過騒音で窓ガラスが揺れるのを見て,日本と自分の未来に夢をはせた思い出がある。*1 全総による全国新幹線整備計画(旧国鉄の主要幹線を新幹線とする夢多き計画)を見て,地図に色鉛筆で加筆したような時代。
 熱海旅行の帰りに生まれて初めてこだま仕様車両に,大阪万博のときに生まれて初めてひかり使用車両に乗ったが,ビュッフェでバカ高いコーヒーをスツールで飲んだのが楽しい子供時代の記憶。*2 シートがガチャンコ両面背もたれ型で前後転換して,肘かけから小机プレートが引っ張りだせる仕様が,当時としては斬新だった。
 当時は,SONYが民生用真空管式オープンリールテープレコーダ第一号を発売し*3,白黒TVでは,カラーTVや8ミリフィルムカメラの宣伝が繰り返し放送されていた記憶。TVアニメも白黒からカラーに切り替えが進み,新聞のTV番組欄には,番組マークにカラー放送を示す「カラー」というアイコンが光っていた。ちょうど,高度経済成長に入るころで,これを団塊の世代が社会人として参入する時代であって,その後の日本の成長を支えたと思う。*4

*1:今の新幹線騒音問題頻発では考えられない古き良き技術進歩への信仰時代。

*2:オヤジが技術屋で新しがり屋なので得したw

*3:オヤジが早速購入してた

*4:負の四大公害も大きく成長してしまったが_| ̄|○